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ロッジの差し陽の中で、珈琲の香りを楽しみながら季節の狭間に癒しを感じ、心の動きを綴っています。カテゴリー別に整理をして引き出しに詰めております。少しの間休んでいって下さい。

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片倉小十郎の活躍と背景、宮城・白石の歴史

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片倉小十郎の活躍と背景、宮城・白石の歴史

現在は、一時43000代まで存在した人口が、現在は37000代にまで減少し、移転者が多く成りつつある。 ここ数年議日しく成った経済状態に、大きな待町へ職を求め、移動していると言う。 宮城は100万都市仙台を抱え、伝統的な食文化と、音楽を中心に、人口の集約に勤め、近年一年を通しての活動が報われ、仙台は日中人口が増えつつあります。 同時に、海の幸の人気も加わり、気仙沼、石巻、女川、亘理、松島、三陸、等「朝市」や「魚市場」に集まる方々も多くなっており、不況の中にも喜ばしい話も出ている。
また人気ゲームで取り扱われた、仙台当主伊達政宗やここ白石の片倉小十郎のキャラクター性からか、白石城への訪れが大幅に多く、更に吉永小百合さんのコマーシャル効果も手伝い、名産品の温麺(う~めん)を食べさせてくれるお店への来店数も鰻登りになっている。 1995年、再建された白石城へは、連日観光の方々も多く、白石も勇者を募り、祝日毎に、鎧兜姿で記念写真のお手伝いを進んで申し出る、勇者も見られるようになった。
ここ白石の歴史、観光にお越し頂くお客様のために、簡単に歴史を纏めてみました。

 古くより、関東から奥羽(東北地方)へと続く東街道の入り口に位置し、交通の要衝であった。 鎌倉時代から室町時代まで、刈田郡を治める豪族、白石氏が支配して居りました。 室町時代末期になると、陸奥の戦国大名、伊達氏の支配下に置かれ、南下政策をとる伊達政宗と、北上政策をとる常陸の戦国大名佐竹義重とで、現在の福島県で激突することになりました。佐竹義重は豊臣秀吉に服属し、政宗には対抗する立場をとっておりました。しかし、政宗は秀吉の停戦命令を無視し、佐竹義重の次男が当主を勤める会津の蘆名氏を攻め滅ぼすなど、戦いを続けていました。政宗は須賀川の二階堂氏をも攻め滅ぼし、東北地方の南半分を支配しました。こうして政宗の奥羽征服戦争で伊達成実と共に特に功績が大きかった白石宗実は、政宗の領土仕置によって白石を離れ、宮森城(福島県安達郡岩代町)へと移りました(こののち宗実の子、白石宗直は、政宗から伊達の姓を賜り登米伊達家の祖となった訳です)。
 伊達政宗が豊臣秀吉に服属して秀吉の日本統一が成ると、秀吉は政宗への押さえとして、会津に蒲生氏郷を入れ、時を経氏郷の死後、その領地を上杉景勝が引き継ぎ、白石は上杉120万石の一部となって行きました。
豊臣秀吉の死後、伊達政宗は徳川家康の政権奪取に協力し、関ヶ原の戦いでは家康の東軍の重鎮として戦いました。政宗は上杉景勝から白石城を奪い取り、白石に側近である片倉景綱(小十郎)を入城させました。こうして白石は、仙台藩の一部となったと言う事です。戦後、家康は一国一城令を発令し、日本全国の城を破却させました。しかし、白石城は例外的に城として認められ、白石は明治維新までの260余年間、片倉氏の城下町として栄え続けました。
 戊辰戦争の際、仙台藩が奥羽越列藩同盟の盟主になると、白石城に列藩同盟公議府が置かれ、白石城は城石まで崩され、さらに、戊辰戦争の敗北により同盟政府は崩壊してしまい、片倉家主従は、亘理伊達家主従や岩出山伊達家主従、角田石川家主従らと共に北海道へ移住し、片倉家主従は幌別郡(現在の登別市)および白石村(現在の札幌市白石区)・月寒村(現在の札幌市手稲区)を開拓し、現在の同名都市の基盤を作って行きました。札幌市には現在も「白石」及び関連の地名が残っております。
戊辰戦争の敗北により、白石をはじめとする仙台藩南部の5郡は一時南部氏の所領とな成りましたが、その後「白石県」「角田県」となった後、「宮城県」として統一されました。このとき明治政府が旧仙台領を「仙台県」とせず「宮城県」という県名に改めたのは、「仙台県」という県名がもつ雄藩のイメージを抹殺するためであったといわれております。
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行に伴い刈田郡白石町,大平村,斎川村,越河村,大鷹沢村,白川村,福岡村,小原村が成立。
1954年(昭和29年)4月1日:刈田郡白石町・大平村、斎川村、越河村、大鷹沢村、白川村、福岡村が合併し、宮城県6番目の市として市制施行。
1957年(昭和32年)3月31日:刈田郡小原村を編入し、現在に至ります。

※白石城:
 白石城は別名、益岡(ますおか)城とも呼ばれています。「本丸」西北角に三層の大櫓(おおやぐら)があり、その規模は上層:5間×3間、中層:7間×4間半、下層:9間×6間で、石垣の高さ5間1尺、櫓高さ8間4尺でした。
 明治維新後、全て取り壊されてしまいましたが、一部の門が市内寺院の門として現在も使われるなど、市内の各地にその面影をとどめており、白石の歴史を訪ねる人々を喜ばせています。
 その後白石城は市民運動の盛り上がりから解体後およそ120年を経て平成7年(1995)に復元され、現在も白石市の象徴としてその威容を誇っています。

※片倉氏:
 片倉氏の出自については「片倉家蔵系譜」以下各書ともに異同がありますが、一般には信濃の出身で南北朝時代奥州探題大崎氏に従って奥州に下り、天文年中、大崎氏のもとを去って出羽に入り伊達家に仕えたといわれています。
 初代片倉小十郎景綱は初代仙台藩主伊達政宗の智将として知られ、以後10代260余年に渡って白石地方を治めました。

※戊辰戦争:
 慶応4年(1868)正月、鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争の火ぶたが切られました。そのような時勢の中、会津藩救済を求めた仙台・米沢両藩主の呼びかけに応じて奥羽25藩の重臣が白石城に会し、奥羽越列藩同盟を結びました。この同盟は白石同盟と呼ばれます。その後、越後の6藩が加わって奥羽越31藩同盟となり、状況の打開に努めましたが形勢は全く不利で、ついに9月15日降伏し、戦乱は終わりをむかえました。
 
★その後の白石城
1872年、白石城は陸軍省の管轄となり、一方、領地没収により録を失った時点で武士でないと、片倉家臣団はいきなり士籍剥奪。話が違うと、執拗な士籍回復運動を展開した。
1873年、明治の廃城令。185城のうち58城のみ残し、あとは白石城なども大蔵省に移管。白石城の評価額245円と判断。民間に払い下げされた。
南の丸跡には現在の白石高校、厩曲輪跡の一部は神明社、本丸・二の丸は民間に払い下げられて転売、畑となった時期もある。
1874年、三階櫓が解体撤去。「東口門」は現在の白石高校のある位置にあったが、この時期に専念寺に売却された。
1885年、士籍回復運動は開拓使をして、ようやく認可させるに到った。
11代、那憲氏、家臣団と北海道へ。
12代、景範氏、北海道。
13代、景光氏、1898年、男爵。片倉家の典医の家に身を寄せた。
14代、健吉氏が同家を改築。
15代、信光氏、住。
16代、重信氏、青葉神社宮司。

明治中頃、骨董屋に出された「時の太鼓」を常林寺(時宗)が買い求めて今でもある。
「厩門」か「大手門」か不明の門が、名取市の耕龍寺にある。延命寺や当信寺ほど手が加えられておらず、保存状態もよく、現存する城門としては有数。
1887年、東北本線が開通。駅前通りを整備した時、専念寺に売却されていた「東口門」は当信寺に転売(次回、ここにも行く(^^ゞ)。
1892年、亘理伊達家、岩出山伊達家が開拓の功で男爵。
1898年、男爵就任を祝して、城のそれぞれの所有者達が片倉家に献上。
1900年、13代、景光氏が大正天皇の成婚を記念して、旧白石町に無償貸与。益岡公園となる。本丸・二の丸・西曲輪が城跡公園となり、中の丸・沼の丸などに、テニスコート・野球場が出来た。
1914年、初代小十郎の没後300年を期に、家臣団を中心に顕彰碑を建立する機運から、計画が持たれたが、翌4年、明治天皇妃が崩御、翌5年に延期。
戦時中は天守台が軍事拠点となり、防空監視網の一端を担って、米軍の来襲を監視。
1987年、大河ドラマ「独眼竜政宗」放映で一躍脚光を浴びた白石市では、白石城復元および郷土資料館の構想が持ち上がったため、翌88年、調査を開始。写真が一枚も残らないため、複数ある絵図の内、最晩年の姿で復元する事に決まり、山形城の二の丸東大手門や小田原城の住吉橋の設計者に、全て木造で再建する計画を持った。
1995年、再建。

かくして白石城は復活のひのめを見る事になった。 現在は資料室と城は200m程離れた場所に存在する事、場内には武具や当時の状況を詳しく説明するものが無いし、人気のキャラクターなどが在来線の、こぢんまりした販売所にのみ陳列されているのも残念な事だ。
・・・が、城下町の雰囲気は抜群の白石。 警察署・郵便局・各所轄交番、駅前通の時計台・電話ボックス、更に、地元の歴史観溢れる酒造蔵、武家屋敷に繋がる蔵、そもそも明治から大正に掛けて、商人の多かった事を現す、今も残る建て蔵は、移住を避け、身分を下げて商いに奔った残武者達のそれぞれの蔵をそのまま残して利用した、武家蔵の名残りでもある。 
 古い武家屋敷跡には、土壁もまだ存在し、外堀に利用された沢端側に掛かる個人用の木橋も未だ多く存在する。
by mix-mac | 2009-10-20 15:48 | ★魅惑の城下町・白石